誰だって老後はとっくに始まっている

今朝、新聞を読みながら時計を見るとすでに9時である。ディサービスに遅刻なしに送って行くには9時半までにはここ自宅を出なくていけない。母親はまだ着替えもしていず、顔を洗った様子もない。さすがに飲み続けている薬とセットの朝食はすでに食べ終わってはいる。元気がいい時はすでに用意が終わっているはずの9時である。

「もう用意した方がいいんじゃない」と声をかける。するとじーっと壁の時計を見上げ、なにやら考えている。「もう出る頃かい」と言いながらも動かない。勘違いでディサービスに行く日を間違えているのか、少しボケているのか判断に戸惑う。それというのも先日、「新聞取ってきて」と言われたけど、いつもの戸を明けて新聞をとる音を聞いているので、テーブルの上を見たらすでにあったので「ここにあるじゃん」と言うと「あっそう」と言われ、いよいよボケたかと気になったことがあったからだ。
しばらくして立ち上がり、用意をはじめたものの30分は軽くかかる。壁にはってるチェック事項も読み上げさせる。電灯は消したか、ハンカチは持ったか、できるだけ彼女が自分でチェックするように、見て見ぬふりをしているものの、彼女がチェックしたかどうかをさりげなくチェックしながら他の事を同時にこなしていると葉書きを出さなくっちゃと思っていたりする自分のついでの用事をよく忘れて、俺もボケ始めたかとショックを受ける。急がせてはいけないと思いつつも少しイラッとする。やっと車に乗せ、送り届けて自宅にもどり、今度は迎えに行く時間を気にしながらしばらくを過ごす。

血の繋がらない高齢者、例えばおばあちゃんが通りを歩いていたり、買い物をしているのを見ると元気でいいね、しゃきっとしているねとただそれだけで見ていたが、いざ自分の母親を目の前にして、老いた体、動きののろさ、もう自分ひとりの力ではバスにも乗れない、そんな姿に接していると文字通り人事ではなくなってくる。俺の20年後の姿なのだと思うと、覚悟を押し付けられたような気がする。そんな意識でTVで、街で、10年位年上のの人を見るともっと具体的で改めてショックを受ける。
ある年令に対して当事者と見ている年の離れた者との意識の違いは当然あるにしても。

母親を大事にしたいという気持ちと見たくない気持ちとが同居しているのを確認する。20代の頃は40台の母親を見てそんなことは考えたこともなかった。誰にもでも来る人生の終わり、それは自分にも無関係ではないという現実が見えはじめたのだ、多分。