黒船 ペリル提督日本遠征記

以下琉球新報より
辺野古問題取材班】米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設工事で15日午前、米軍キャンプ・シュワブのゲート前で座り込む建設反対の市民らに対し、県警機動隊がはさみを取り出し、隣り合う市民同士が腰に巻き付けていたひもを切って排除した。大勢の市民と機動隊員がもみ合いとなっている混乱した現場で、警察側が刃物を使用したことに批判の声が上がりそうだ。

この日の強制排除には県警の交通規制担当の警察官も加わった。市民らは「交通誘導を行うべき警察官が排除という実力行使をするのは初めてだ。権力の横暴だ」と批判の声を上げた。












辺野古を訪ねて以来、沖縄の事には関心が深くなり、反応する機会も多くなった。そしてそのたびに沖縄に対する知らないことの多さを知り、印象は変わっていく。

先日も「朝日新聞葉室麟の沖縄の事を訪ねた感想」に反応した。

ちょっと長いけれど一部を転載させてもらおう。

ペリーは日本と条約交渉をする間、琉球を5回訪れている。日本に赴いていた1854年6月、琉球に残っていた水夫が上陸して民家に押し入り、酒を飲んで酔ったあげくに女性を襲って乱暴した。これに怒った住民が追いかけて石を投げつけると、那覇港に逃げた水夫は足を滑らせて海に落ち、溺死した。事件を知ったペリーは激怒し、琉球側の「非は女性に乱暴した水夫にある」との主張を認めず、住民の処罰を求めた。琉球側はやむなくアメリカ側の立ち合いで裁判を開き、琉球人6人を島流しの処罰とした。(実行されたかどうかは不明)

「ぺリル提督日本遠征記」によると、ペリーはこの事件について
琉球人とアメリカ人との全交際中に生じたひどく不愉快な出来事の唯一の例であった。」と言う。しかし、「不愉快な出来事」は今も変わらずに続いている。すべてはペリーから始まったのかもしれない。